宮廷画家ゴヤは見た

というタイトルを聞くと、どうしてもこんな絵が描きたくなるわけですが



(このサイトの「おえかきツール」ではなく、今回はPhotoshopを使ってみました。レイヤー重ねまくりで小一時間かけて、かなり一所懸命に描いてみました。何しろ今日観た映画はゴヤの視点で語られる物語でしたから。でも、一所懸命描いてもこんなもんです。ゴヤの足元にも及ばないのは言わずもがなですが、いままでの5分弱で描いている絵と基本的には何にも変わってない気がするのが自分でショックです)

それはそれとして

この映画で描かれるのは異端審問でございました。

カトリック教会が、「イエスの教えを信じない者」「ユダヤ教をはじめとする他の宗教を信じる者」さらには「反キリストあるいは悪魔を信じる者たち」をひっとらえて、拷問して、そして火炙りにした、というのが異端審問ですね。

キリストの教えを信じない者は火炙りにしてしまっても良いと、カトリックの司教たちは思っていたわけです。

まさか「愛の教え」を説いて歩いていたイエス・キリストが「自分を信じない者は殺しても良い」と弟子たちに伝えたわけはないのですが、カトリックというのは昔も今も基本的には「恐怖によって民衆を支配する」という傾向の強い宗教ですので、「イエスを信じない者は地獄に堕ちる」と言い、面倒だから「我々が主に成り代わって地獄に落としてやる」、いやいや死んでからの地獄ではなく、地獄を味わって死なせてやるとエスカレートして行きます。
これはけれど、聖書の教えなのだと彼らは言います。
彼らが論拠としていたのは、聖書の中のこんな一節

《わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう》

これがカトリック信徒でない者は火の中に投げ込んでも良い、という異端審問を正当化するために使われる聖書の中の一節です。

イエスが「すべての人はわたしにつながっている」と言いたいのは明白だと思いますが、当時のカトリックの司教たちは「イエスとつながっているのは自分たちだけ」という特権意識を誇示していました。
まあ、いまでもそう思っているカトリック保守派の人たちはいるわけで、彼らは「ブッシュの戦争」の仕掛け人でもありました。
イスラム教徒は「わたしとはつながっていない」ゆえに「クラスター爆弾でもバンカーバスターでも打ち込んで火炙りにしてもいいのだ」という理屈になります。
そして
「神の名の下の殺人は罪ではない。これは公共福祉だ」とさえ言います。


なので
《敵を愛し、自分を迫害する者のために祈り、あなたがたを憎む者に親切にしなさい》
というイエスの山上での説話は無視されます。

《あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい》
この聖書の言葉の中の、『目には目を』のところだけ抜き出して、「報復攻撃」をしたりしているわけです。
けれど読めばわかる通り、聖書が言わんとしていることは「報復はいかんよ」ということです。
目には目を、というのは聖書ではなく、ハムラビ法典ですし、
復讐するは我にあり
という聖書の一節も、「復讐は神の仕事だから、あんたらが勝手に復讐しちゃいかんからね」という文脈の中で語られる言葉です。

というようにゴヤが宮廷画家だった当時のカトリック司教たちも、いま現在のブッシュの後ろ盾であるカトリック保守派の人々も、じつは「聖書なんか本当は理解していない」人たちなんですね。

ちょうどいま読んでいる『秘密の巻物』というサスペンス小説は死海の畔でまたひとつ古代の巻物がみつかる。それはイエス自身が記した文書だった。
さて、そこには何が書かれているのか、とイスラエル考古学庁の面々が解読をはじめるのです。
で、その巻物を巡る争奪戦やら陰謀やらが展開する小説ですが、登場人物で、熱心なキリスト教徒の考古学者たちがこんなことを語り合います。

「このイエス自身が書いたのかもしれない巻物が、わたしたちの信仰を根底から覆してしまうものだとしたらどうする?」
「文書に何が書かれていようと、そんなものに私の信仰を揺るがされてたまるものか」

さて、
この『宮廷画家ゴヤは見た』ですが、これはそういう「揺るぎない信仰」を持つ者たちの狂気と、それに翻弄され、人生を狂わされる美少女ナタリー・ポートマンの運命を、画家であるゴヤの目を通してみつめています。
ミロス・フォアマンの演出は重くなりがちな題材を思いの外軽やかにテンポ良く見せきっておりました。
原題は「Goya's Gohsts」ですから、「ゴヤが見た亡霊たち」といったニュアンスでしょう。
亡霊とは「狂信」であり「革命」であり、そして「無垢な魂」なのでしょう。その亡霊たちを絵画の中に塗り込めて、ゴヤは「時代の妄執」を後世に語り継ごうとしていたのですね。