ハリーポッターと謎のプリンス
見て参りました。
のっけからハリーが駅のカフェでウエイトレスと視線交わし合っておりました。
大人になったんやねえ。
と
近所の子どもの成長を見ているおっさんの気分でニコニコと画面、見てました。
これ、原作を読んでる息子くんには「良くできてはいるし、画面もいいけど、でも、なんで大事なとこカットしちゃうの!」と怒られていて
原作を読んでない妻さんには「いままででいちばん面白かったあ」と言われてる映画。
で。
ぼくは原作をペーパーバックで読んでいるだけ。
読んでるって言ってもぼくの英語力では
「このページにはだいたいこんなことが書いてあるなあ」
ぐらいにしか理解できてないので、
言うなれば「読んでいる」と「読んでない」の中間に位置してる感じ。
そういうぼくには
「あの原作をよくまとめましたね。怒濤のアクション部分をばっさり切っちまう、という決断もかなり勇気のいることだったでしょうね」
という感じで、比較的好意的に見終えました。
で、いつものように
以下 ネタバレ注意報 発令
OK?
この手のファンタジー映画というのは、いつだってどこか描き足りてないのが当たり前なんです。
もう、山ほどのファンタジー映画を見てきてる身としては「退屈なシーンが少ない!」というだけでも拍手ものです。
校内ラブ・アフェアのシーンも、何か微笑ましいし、それでいて思春期の気持ちの揺れがちゃんと見えてくるし、出番は少ないけど悪役ドラコの苦悩にしても、必要な要素はちゃんと描かれてるしね。
これで原作のクライマックスであるホグワーツ校内でのヴォルデモート一派とホグワーツ教授陣との壮絶な死闘と、壮麗なお葬式のシーンもちゃんと映像として描かれていたら、さらに素晴らしいファンタジー映画になったことでしょう。
けれど、ここでそういう大クライマックスをやってしまうと、完結編の二部作でやる事がなくなっちゃう、というのも事実。
何しろ、この原作というのは巻を重ねるたびに前にやったことを繰り返し続ける、という大いなる堂々巡りな小説だから。
二巻目以降は、毎回、ハリーはずっと悩んだり、悲しんだりしていて、途中で必ずロンとかハーマイオニーと喧嘩して絶交状態になって、ハリーはさらに落ち込む。その一方で闇の帝王ヴォルデモートが着々と力を蓄えていて、ハリーに魔の手を伸ばしてきていて、それでいて、ヴォルデモート、いつまでたっても本格的にハリーに牙をむいては来ない。
このプロットを毎回毎回繰り返してるんです、この原作。
そして なんと!
完結編でもやっぱり、これを繰り返す!
悲しみのハリー → 親友との喧嘩 → なかなか本格的に責めてこないヴォルデモート
なので、次回の『死の秘宝』はシリーズはじめて二部作で映画化できるわけですし、だったら教授陣と悪役連合との戦いはこちらでたっぷり時間をかけて描きたいだろうし、完結編のオープニングは壮麗なお葬式シーンからはじめ、いままでこのシリーズに登場した人々がそこに大集合してるところからはじめたいでしょうしね。
(本来、『謎のプリンス』のラストシーンである原作のそのシーンのように、ケンタウロスもゴブレットを争った他の魔法学校の人々も人魚もドラゴンも大集合というシーンから、さあ完結編を始めるぞ! としたいはず。ぼくだったら、絶対そうするし)
でもって、二部作の後編では善と悪の戦い(それはつまり自分に内在する強さと弱さの主導権争いだ、ということをハリーとトム・リドルは同じ素材で作られた杖を持っている、という原作の設定は示しているのだけど)をたっぷりと描くことでしょう。
それ故、今回は敢えて映画的な見せ場をカットしたんだろうな。
と、思います。
なので、この映画に不満をお持ちの方は、完結編までしばし我慢しといてね。
そして
ファンタジー映画って、基本的にこのくらい面白ければ充分、恩の字なんだよってことも知っておいてください。
ぼくが浴びるほど見ていた60年代、70年代のファンタジー映画なんて、もっとテンポが悪くてもっと退屈で、もっと薄っぺらでしたよ。
それでもその中に、キラリと光る宝石のような1シーンが、いつまでも心に残っているんだよね。
この映画の中にも、そんな宝石があって、それを見つけて、ファンタジー映画を好きになってくれる子どもたちがいてくれたら、それでいいんじゃないか、と思います。