heal the heel

このHeelは踵ではなく「悪玉」という意味でのヒール、ですけど。

まあ、『カールじいさんの空飛ぶ家』を見ながら思ったわけです。

どうして悪役が情け無用の凶悪さ、なのか。(子どもですら殺そうとするし)
どうして悪役をあんなふうにして終わらせなければいけないのか。
どうして、ドンパチをやらないと気がすまないのか。

って。
銃をぶっ放すのがエンターテインメントだなんて、誰が決めているのかな。

とくにこの映画にそういうシーンが必要不可欠だったとは思えないからこそ、「なんで?」って強く感じちゃったわけです。
だって、いいお話しなんだもん。
わざわざ、あんな悪役を出す必要、あるんですか?

ぼくだったら、年取った夫婦が一緒に旅に出るって話にしちゃうかも。
あるいは
じいさんとあの男のこの旅にするにしても、あの悪役をじいさんと同じように「ひとつの約束を果たすため」にあの場所にいて、そしてじいさんと一緒に「なにがしかの目的」を遂げるって物語にしちゃうかも。

そこらへんが、悪をやっつけてめでたしめでたしっていう《勧善懲悪》を信じていないぼくの、作家としての限界かもしれませんけどね。
ぼくは「悪役を救え」って、いつも思っちゃうからね。
「ヒール・ザ・ヒール(悪を癒せ)」
それがハッピーエンドだって信じてるから。

というわけで。
誰も悪い人が出てこないエンターテインメントを、今年も目指して行きたいと思うのでした。

それにしてもあの鳥、冒頭ではまるでロードランナーのようなスピードで突っ走ってましたけど、その設定を後半すっかり忘れてるのはなにか意図があってのことなのかなあ。
匠ぞろいのピクサーの作品だからこそ、こちらが意図を見落としているって気がするだけですか?