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GIVE UPから TAKE UPへ

というわけで、また『カールじいさん』の話です。
あの映画について、いろいろ思うところがあるわけです。
で。
なんで? と思ったことに対しては自分なりの答えを見つけないと気持ちが悪い。
で。
みつけた答えが、この「GIVE UPからTAKE UPへ」ていう言葉。


と言うわけで、以下ネタバレ。









































OK?


























この映画は「最愛の者を失った老人」の姿を描くところから始まります。
そして、亡き妻が遺した「子供の時からの夢」を実現しようと思い立ち、彼女と暮らした家と一緒に空へと舞い上がる。
そのきっかけとなるのが「他人に対して思わず暴力をふるってしまった自分」に対する戸惑いと恐れだったりします。
おとなしい、自分の思いを言葉にすることにすら物怖じするような人生を送ってきた自分なのに、いま「大事な物を守ろう」という気持ちからとはいえ、他人に対して発作的な暴力をふるってしまった。
それはある意味、彼の人生が壊れはじめている、ということでもあります。

そして「空へと舞い上がる」わけですが、これは「住み慣れた場所からの逃走」という意味合いが強いんですね。施設に送られる前に逃げ出してしまおう。
そういう気配です。
これはだから「GIVE UP」からはじまる物語だとも言えます。
もう、降参。自分には「戦う意欲はもうない」、自分に出来ることは亡き妻がいるはずの「UP」に近づくことだけ。
老人の目的は「妻がそこで暮らしたい」と思っていた南米の「失われた世界」、その滝の上に家を建てることだと説明されますが、それは結局のところ、「妻と同じ場所へ行きたい」=「死んでしまいたい」という自殺願望でもあります。
風船で家を飛ばして南米を目指すなんて、「命がけ」の冒険、ですからね。
「命がけ」とは「死をもいとわない」ということですから、これはやっぱり「自殺願望」。
老人は愛する者のいない人生にGIVE UPしてる。
彼が目指しているのは、ただ「UP」することだけ。
彼女のいる場所に近づくことだけ。
その天国へと安らかに昇って行くだけだった(彼の本音はそこにある)旅。
そこに、しかし闖入者が現れる。
ラッセル、という名前の男の子。
(ラッセルといえば『ラッセルの幸福論』が有名ですね。これは「自分の関心を内へ内へとむけるのではなく,外界へとふりむけてあらゆることに好奇心をいだくこと」が幸福へと至る道だ、と説いた本ですから、風船で空へ舞い上がった老人への対立軸として申し分なしです)
亡き妻と過ごした「幸福な日々」という「想い出」のなかに逃げ込み、生きることから「GIVE UP」していた老人は、このラッセル少年という厄介者と対峙しなきゃいけなくなる。
(そう、「外へと向けて生きる」というのはいつだってやっかいで面倒なことですから)

で、このラッセル少年と出会った直後に猛烈な暴風雨に巻き込まれます。
「生きろ!」というのは言葉は簡単だけど、それはとてもハードな嵐の中を突き進むことです。それでも「生きねば!」なわけです。

嵐を抜けた先にあるのが何と目的地。
(冒険映画でこの展開はあり得ませんね。たいてい目的地に着くまでの艱難辛苦が描かれるはず。ところが、これはポーンといともあっさり、ゴールに着いちゃう。ということは、作り手は「ADVENTURE」と書かれた亡き妻のアルバムに導かれた旅、という設定を用意しながらも、じつはぜんぜん「アドベンチャー映画」など作るつもりはないのだとわかります。何しろ「生きることに降参した老人」の話ですから「生きるためにサバイバルする」というのが基本のアドベンチャー映画とはベクトルが反対なわけです)
(じゃあ、なにを描きたいのかというと、「幸福な想い出」という甘く美しい「内側」に向けていた目を、もう一度、「外側」へ向けさせるための物語、なんですね)

で、「死んでしまったとしても、それはそれでOK」と考えていた老人は「神」と出会います。
神のように崇拝していた偉大なる冒険家。

この神は「自殺願望」を持つ老人に「はいよく来ましたね。じゃあ、天国で奥さんと一緒に過ごしてくださいね」とは言ってくれません。
この神は老人に「甘美な死」などないことを伝えるために登場します。
凶暴で凶悪、容赦なく立ちはだかる者を殺そうとする、そんな「死に神」です。

ここで、老人は思い知ります。「死んでしまってもいい」という甘やかな幻想と、実際にその命が脅かされるのとは別物である、ということを。
とことんまで「死」に追い詰められ、老人は「死ぬわけには行かない」という気持ちを目覚めさせます。
なぜなら、「守るべきものがある」から。
それはやわらかな過去の日々、という「想い出」ではありません。
その「想い出」をその手で破壊してでも守るべきものがあるんです。
それは「明日を生きる若い命」
(これは「繁栄」という「想い出」を守るために若い命に犠牲を強いる戦争というものの対極にある思想ですね)
いちばん大事な物(国家)を投げ捨ててでも、「若い命」は守られなければならない。
老人はそう気づきます。
ここで「内側」から「外」へとその視線の向きが変わります。
自分のすべてを投げ出して(GIVEして)、老人はもう一度、舞い上がります。(UPします)
それは
明日を生きる命を手に入れる(TAKEする)ための再上昇です。(UPです)

想い出という過去から、明日を生きるという未来への視線の転換、それこそが「ADVENTURE」なんですね。

GIVE UP(もう、おしまい)からTAKE UP(さあ、はじめよう!)へ。

これはそれを描きたいがために、神が情け無用の悪へと変貌して襲いかかってくる、という物語。
(悪の中にある心とは、その「追い込むことで本来の力を蘇らせる」という装置に神が自ら徹してくれている、ということなのかもしれません)

そしてこれはだからこそ、「HEAL THE HEEL」(悪を癒す)物語にちゃんとなっているわけです。自殺願望、という「悪」を「癒す」ための、ショック療法としての悪役設定。

それを語ってこそ、GIVE UP は LIVE UP(生きよう!)に変化できるんですね。


ちなみにラッセルが守ろうとし、神が奪おうとした鳥の名前はケヴィン。ケビンというのは「美しい誕生」という意味の名前だそうです。
ここでは子を得られなかった老人と父に見捨てられた少年との、疑似親子関係の美しい誕生、という意味合いが託されているのかもしれません。
と、自分の質問に自分で、自分なりに答えてみました。
そして思う。
やっぱりPIXER、匠が揃っておるわい。