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朝の五時にぼんやりと思う我あり

なにが映画や小説があって、

facebookTwitterで「面白い」とか「最悪」とか書かれているのを読みながら、ぼんやりと思う。

なにを面白いと思うか。なにを今ひとつと感じるか。

それは人それぞれで、どれが正しい、なんてことはぜんぜんない。

同じように 原発再稼働に賛成する あるいは 反対する。

そこにも どちらが正しい ということはない。

ヘイトスピーチに乗っかる あるいは それを断固否定する。

現政権を支持する あるいは 指示しない。

それも 何が正しくて 何が間違っているのか ということは ない。

 

24時間テレビで40過ぎのタレントが101キロを24時間で走る それを大感動しなきゃいけない、というふうに作っているテレビを観て ちゃんと感動するもよし

100キロマラソンには40過ぎの素人がたくさん出場するけど、制限時間は12時間だよ? 

なんて言って白けるのもよし。

「こういう肉体の酷使の仕方は後になってひどい後遺症が残ったりするんだけど、そういうことわかっていて、みんなして歌を合唱して応援してるわけ?」とか呆れるのも、またよし。

何が正しくて 何が間違っているのか そんな区別はない。

 

何かに失敗するのは良くないことかもしれない。 誰かを傷つけることは良くないことかもしれない。

確かに 個人個人の中では、それらは良くないことだろう。

けれど、ひとり、ではなく、ひとつの集合体として見たならば、誰かの失敗は、別の誰かに成功へのヒントを与えるだろう。

誰かを傷つける人と傷つけられた人を同時に見ていれば、どちらも弱く、どちらも痛みを抱え込むことが見えてくるだろう。

誰かの正義は誰かにとっては悪だ。

俺はいま悪いことをしている、と言って他人を苦しめる人はあまりいない。 それがルールだ、それがみせしめだ、それが俺自身を救うのだ、俺の強さを見せつけなければならないのだ。でなければ今度は自分がひどい目に遭うからだ。

そんな理由をくっつけて、正義を押しつけ、誰かを犠牲にする。 正義も悪も だから、ない。

悪いことだと知っていながら、ほかにどうしようもなくて悪いことをする人は一歩離れた場所から見れば、共感と同情を誘うかもしれない。

正しいことだと自信を持って正しいことをする人は一歩離れて眺めていると、狂信的で怖い、というふうに見えるかもしれない。

当人にとっての善悪は集合体から見ると逆に映ったりする。

 

転んで怪我をする。その痛みを記憶する。次は同じ場所で転ばないように注意する。人にもここは危ないよ、と教える。そして同じ場所で転ぶ人がいなくなる。すると痛みを知らない人がやってきて、同じ場所で転びはじめる……。

そういう繰り返しの中で集合体としての記憶が徐々に形成されていく。

 

禍福はあざなえる縄のごとし、という。

 

なにを面白いと思うか。なにを今ひとつと感じるか。

原発再稼働に賛成する あるいは 反対する。

ヘイトスピーチに乗っかる あるいは それを断固否定する。

現政権を支持する あるいは 指示しない。

何が正しい、なんてことはない。

 

そういう事象はただ事象としてそこにあるだけだ。

そしてだから個人個人でそういう事象に「自分なりの意味」を与え、賛成したり反対したり、どちらにも与しないでただ傍観することを選んだりする。

そうやって「自分はこういう人だ」ということを自分で規定していく。 自分で自分を作り上げていく。

私はこれを面白いと思う人間だ。私は原発再稼働を容認する人間だ。私はヘイトスピーチをする人間だ。あるいは、その逆の立場だ。

と、自分で自分はこういう人だ、と決めていく。

 

誰かの作った作品を見て「好ましい」と思えば、それは「私はこの作品を好ましいと思う人間だ」ということ。「私はこの作品を今ひとつだと感じる人間だ」ということ。

ネットというのはそうやって「私はこういう人です」と表明する場所。

だから「あの映画はつまらない」と言ってる人は、その言葉を読む人から「あなたはあの映画をつまらないと思う人間なんですね」と思われてるし、そう評価される。逆に「へえ、あなたはあれを面白いと思う人間なんだ」とも思われてる。

作品そのものの評価とは別に、作品を評価する人もまた評価されてる。

 

なんて、いつもより早く目が覚めた今日はそんなことをぼんやりと考えていた。