蔵出し その1

以前、mixi日記に書いてあった事柄を、再読したい、という方がいらっしゃったので、
こちらに転載しておきます。

mixi外のblogを使うと、mixiで書いていた過去に日記が読めなくなるんだそうですね。

では、お蔵だし〜。

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トゥモロー・ワールド 2006年11月27日21:42の日記

最近は映画について、「その意味するところ」をいろいろと解釈したりする、そういうものを書く気はあまりなくて。
(書いたところで、ぼく個人の一解釈に過ぎませんからね)
なので、おもぴろかった〜♪ というようなことしか書かない日々を過ごしておりました。
(つまらなかった〜、とは書かないようにしている)

だが、しかし!
これはちょっと書いておいたほうがいいかも、と思ったのが
トゥモロー・ワールド
でございます。
何で「解説」みたいなことを書いた方がよろしいような気がするのかと言うと、ネットでいろいろな人の感想を読んでみたところ
「わからん!」とおっしゃってる人が多いから。
「説明が足らなすぎ」だと書いている方が多いから。

そうか。
わからないからつまらない、というのでは映画が可哀想じゃないか。
ならば
理解の助けになるような文章を書こうかな。

(というわけで、以下の文章は、いずれちゃんとした文章にまとめて、ホームページのほうの『LOOK ALIVE』のコーナーにでも載せるための、いわば下書き、覚え書き、みたいなものですので、長文だし、みなさまはぜんぜん読む必要はありませんよ)

この映画は、子供が生まれなくなった未来、つまり種の存続が絶望的になった未来を舞台にした物語です。
で、希望を失った世界は、それゆえに荒れています。人心は乱れ、町は崩壊し、国家もイギリス以外は壊滅しています。
これはそーゆー物語。
希望なき人々は自分たちの生存権だけを守ろうとし、他者を排斥しようとしています。だからイギリス国内は政府軍と反乱軍との内戦状態。そこに大陸からの難民たちが押し寄せてきていて、彼らを隔離するのに大忙し、というまるっきりのデストピア。
これはそういう「未来」を描きながら、じつはいま現在の中東を描いているといってもいいでしょう。
で。
中東において「希望が失われている」とはどういうことか、というと「宗教対立によって、真の救いというものが見えなくなっている」ということです。
なので、この映画は「真の救いを見失った世界」を舞台に、「新しい聖書を綴ろうとする」そういう映画なのだと思ってください。
そう、この映画はSFの設定を使った「宗教映画」だということです。
カトリックでも仏教でもイスラムでもユダヤでもない、新しい救いの誕生を見届けようとする、そういう物語です。
そしてそれを、ひとつのポエム、つまりは「詩編」として描こうとしています。
ポエムですから、状況説明は最小限の言葉で処理されます。そして説明を削ることで、ひとつひとつの事柄を「シンボル」として捉え、言葉は何か別の事柄への比喩、暗喩となっています。
それを解釈することがつまりは観賞であり、作品との対峙、ということになります。
一編の詩に対して、「説明がないからわからん」という感想もありですが、それだけで評価を下してしまうのは、少し困ったちゃんかもしれません。

詩、というのは当然ながら、語られている言葉の意味を解釈しながら、それぞれの中でイメージをふくらませてゆく、そういうメディアだからです。

当然ながら、意味を解釈するためには、ある程度の基礎情報が必要となってきます。
薔薇はマグダラのマリアを表し、ユリは処女マリアを表す、というような「基礎情報」ですね。

で、この映画を理解するための基礎情報ですが……。

まず登場人物たちの名前。
主人公の名前はセオ、これはセオドアの略称です。
Theodore
これはギリシャ語で「God's-gift(子宝を授けられたことに対する神への感謝)を表す名前です。
また「セオ」は「テオ」と称される場合もあり、その場合は
「テオロジー」つまりは「神学」を意味します。
これが主人公の名前の意味。
フルネームは セオドア・ファーロンですから「永遠の(far long)神学」という感じになります。

彼のかつての妻で。現在は革命グループ「フィッシュ」のリーダーになっている女性の名前はジュリアンです。
ジュリアンという名前はジュリアスと語源を同じくする名前。
ジュリアスといえば、シーザーですね。
シーザーは信じていた腹心の部下の裏切りによって命を落とすリーダーです。そのジュリアスの女性名であるジュリアンという名前を与えられている革命組織のリーダーですから、その運命は明らかです。

セオが助けを求める森の奥に住む老人。
彼の名前はジャスパーです。
ジャスパーとはガスパールを語源とする名前。で、ガスパールと言えば、それはペツレヘムで生誕した赤子を祝福するためにやってきた三人の賢者のひとり、ですね。
(ガスパール、メルキオール、バルタザールの三人)
そういう名前ですから、彼が「この映画の中の唯一の希望」に祝福を与える役割を与えられています。

キーという黒人の少女も重要です。
何しろ「キー」ですから。彼女こそが希望の扉を開く「Key(鍵)」です。

もうひとりの重要な登場人物の名前は
ディラン
です。
この名前だと、誰しもまず思い浮かぶのが「ボブ・ディラン」ですが、この映画を理解するためにはそのボブ・ディランがこの名前を名乗る時にあやかったアイルランドの詩人、ディラン・トーマスのほうを思い起こす必要があります。
(ボブ・ディランはこの芸名はディラン・トーマスに由来するのかと聞かれ、それを全面的に否定していましたが、最後の自叙伝の中では、ディラン・トーマスから名前を貰った、と認めています)

ディラン・トーマスという詩人が何で大事なのかというと
この映画はまるっきり、この詩人の作品をイメージの下敷きにして作られているからです。

ディラン・トーマスという人は
人間をも含めた自然界における「誕生-死-再生」のサイクルの中に世界をみつめようとした人で、晩年にはその自然界のサイクルを「宇宙の輪廻」という思想の中で捉えるようになっていったひとです。

「誕生・死・そして再生」というサイクル。
これこそが、この映画が描こうとしているテーマ。
というよりも、この「破滅は再生の始まり」という輪廻こそが「希望」だと感じて貰いたいと主張しているのがこの映画なんです。

説明のない、あっけないような、けれどとてもスピリチュアルでポエティックなエンディングから、このディラン・トーマスのメッセージを汲み取って欲しくて、映画は最後に「ディラン」という名前を強調するのです。
さらにこの時、主人公セオが着ているのは「LONDON 2012」というロゴの入ったオリンピック記念のトレーナー。
「LONDON」と、「ディラン」という名前を重ねることで
ディラン・トーマスの代表作
「ロンドンの子供の火災による死を悼むことを拒否して」
という詩を想起してもらいたい、と映画は言っているわけです。

この映画のラストシーンは、明らかにディラン・トーマスの詩を映像化したものです。
その詩とは以下のような作品。

 ほとんど放火といってよい夕べ
 ロンドンの波の上で傷ついた身近な人たち 見知らぬ人たちが
 あなたの唯一つの墓を探し求めた時
 多くの敵の中の一人の敵は
 あなたの心が錠前と洞穴の中を震えながら通り抜け
 見張られている暗闇で光っているのをよく知っており
 太陽を遮るために雷電を引き寄せ
 突進し 暗くしたあなたの鍵にうちまたがり
 正義の乗り手を焼き焦がして追い返すだろう
 そしてついには あの愛されることの最も少ないものが
 あなたの十二宮の最後のサムソンの姿をとって
 ぼうっと浮かび上がるのだ

(「ロンドンの波の上で傷ついた」セオが「洞窟の中を震えながら通り抜け」て、海へと漕ぎ出し、そして「太陽を遮る雷電」のような戦闘機が空を飛んでロンドン市街を空爆するのをみつめながらも「鍵にうちまたがり」、つまりはキーという名の少女を乗せて船を漕いで行きます。「十二宮の最後」といえば魚座、つまりはフィッシュですね。サムソンとはペリシテ人の支配からイスラエルを救った生まれながらの神の子、です。)

この映画を見ながら、この詩を思い出して欲しい、と作り手は言っているのですが、欧米の人たちならともかく、日本人にはちょっと難しいですよね。

ですが、ディラン・トーマスの作品を想起することが出来たなら、この映画のラストシーンがつまりは、次のような詩の一節を観客に思い起こして欲しいと訴えていることが感じ取れてくるわけです。

 朝は 彼の齢の数の翼を羽ばたいて飛んで行き
  そして百羽のこうのとりが 太陽の右手にとまっている

つまりは「ひとりひとりの胸の中に宿る希望こそが、未来という名の子供を運んでくるコウノトリなんだ」と。「希望がある限り、明日は死なない」のだと。





ふー。
まさか、最後まで読んでませんよね? もう一度言いますが、これはぼく自身のための覚え書きです。

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あくまでメモで、あとでちゃんと書きますとかいいながら、こんなことを書いたことすら忘れているワタクシは、かなりアバウトな「その場その場ニンゲン」ですね。