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蔵出し その2

これも「それから《ハンコック》の時の日記も読み直したい」とか言われ、「はて、何か特別なこと書いたっけ?」と、まるで覚えていなかったので、再録。

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『ハンコック』はとあるホームパーティーの時、来ていたソニー・ピクチャーズ勤務の友人と映画ライターの友人が揃って「前半は面白いのに何で後半はあんなにグダグダになるのだ」と言っていたのを耳にした息子くんが、彼自身そう感じていたので「どうして後半、あんな風になるのか教えて」と言っていた映画。
で、ようやくその問いかけに応えるべく観てきました。
さて。
この映画を前半と後半、というふうに分ける理由がボクにはまずわからない。というのはすべての映画と同じように、この映画もまた後半を描くためにこそ、あの前半があるからです。
飲んだくれで口の悪いヒーロー、ハンコック。彼は嫌々ながら、面倒くさそうに立ち上がり、悪を退治する。けれどパワーが有り余りすぎているので近くの建物やら道路やらまで破壊してしまう。だから街の嫌われ者。
その破天荒な暴れッぷりを見せるのがいわゆる「前半」なのでしょうね。そのコミック的な面白さが最後まで続けばよかったのに、と息子くんやらホムパに来ていた友人たちやらは言いたいのでしょう。
しかし。
では何故、人一倍の力を持ち、空だって飛べちゃうハンコックが、飲んだくれの嫌われ者になってしまったのか。その理由を語るのが「中盤」で、そこから彼が「過去の記憶を失ったひとりぼっちの淋しい男」であり、しかも「永遠に死なない(死にたくても死ねない)」絶望の中にいる、ということがわかる。
人助けなんかしたくはない。本当は誰かにこの自分を救って貰いたい。
ハンコックはそう感じてる。彼がハチャメチャな暴れ方をするのは、ある種の自殺願望であった。
物語はそう綴り、そして「後半」。
この超人は果たして何者なのか、ということが明かされて行くわけです。
その明かされた答えが、おおかたの人たちにはお気に召さなかったんでしょうね。
けれどその答えは映画の冒頭から実は示されていて、それはハンコックがワシのマークの帽子をかぶり、ワシのマークのシャツを着ていて、彼の暮らす掘っ立て小屋にもワシの置物や飾り物が所狭しと置かれてる。
つまりは「儂はワシじゃ!」と言ってる。
さて、ワシとはなんぞや。
それは「人を救済するために舞い降りるキリスト」を現すシンボル。
同時に「イーグル」と言えばイーグル・サムでお馴染み「アメリカ」そのものの象徴です。

人助けのために他国の問題にちょっかいを出すけれど、パワーがありすぎるので何でもやり過ぎ、破壊しすぎでみんなから嫌われているスーパーヒーロー。
これはまさに現代のアメリカそのものなわけです。
つまり人助けと称して暴れ回り、町をを破壊し、謝りもせずに去って行くハンコックを観て、そこにアメリカという国のいまの状況を感じてくれと映画は言っているんですね。
つまりはこの映画もまた「ポスト911映画の一本」なわけで、だからホムパの映画ライター氏たちのような「勧善懲悪、悪者をやっつけてスッキリ!」という「娯楽アクション映画」好きの方たちは「んなもんどうでもいいから、もっと派手に暴れまくれよ。世界征服を企む悪と戦えよ!」と言いたくなるのでしょう。

けれど残念ながら映画は常に時代の産物として生まれてきます。

いま、という時代は「正義」を語りづらい時代なんです。何しろ「正義のアメリカ」が「悪の枢軸」を倒し、「民主主義を世界に広める」という戦争を始めたばっかりにアメリカはいま「世界の嫌われ者」になっているのだから、下手に勧善懲悪映画なんか作ったらそれこそ世界の笑いものになるわけです。
アクション映画バンザイの方々には申し訳ありませんが、心ある映画作家はいま「悪を倒してスッキリ!」なんて映画は作りません。
そういうアクション映画がお望みなら、これからは「バーチャル・シュミレーター」か何かが代替品になってくれるでしょう。バーチャル世界で自らがヒーローとなって思う存分に悪をバッタバッタとなぎ倒してください。映画などよりもずっとリアルな臨場感を味わえるはずです。

そういう原初的な暴力本能を刺激するようなアクション映画ではなく、『ハンコック』はひとつの神話として物語を綴るのです。
孤独なヒーロー、しかし愛するものが出来るとそのパワーは失われてしまう。永遠の命も不死身のパワーも愛は必要としないから。
傷つきやすく、失われやすいものだからこそ、愛は何よりも大切なものとして認識され、大切に守られる物だからこそ、愛はそれ自体が永遠でもっともパワフルな力となる。
だから愛し合うふたりにスーパーパワーはいらない。
もしスーパーパワーを望むなら孤独と共に生きるしかない。

『ハンコック』は嫌われ者のアメリカに対して、世界なんか放っておいていちばん身近な者を愛し、その愛と共に生きる道を進んではどうか、と語りかけています。
ちいさな家庭を守り、地域の人と愛を分かち合い、子供たちの成長を見守る。
ひとりひとりがそこにこそ「希望」があると気づいたなら、はじめて「戦いの歴史」を閉じることが出来るだろう、と。

その「後半」を言いたいがために「前半」があるわけで、だから「前半は面白いのに後半は……」という言い方そのものがぼくには「?」なのでした。

またワシは「真の光へと道案内する聖母マリア」を表したりもしますので、だからヒロインの名前はマリー、そのマリーの旦那さんでハンコックを生まれ変わらせようとするPRマンの名前がレイ。レイは「光」ですが、ここでは古代ゲルマン語で「レイ=カウンセリング」だということを知っていると、映画の中での彼の役割がよりハッキリとするでしょう。レイには子供がいて、マリーとは再婚。その子供の名前がアーロン。アーロンという名前はモーセの兄として、聖書に登場します。

そんなこんな、何から何まで作り手は計算の上でこの映画を作っております。
そして、それゆえにこの映画はどこか「窮屈」な感じがします。
ロジックで作られているがゆえに、そのロジックの檻から映画として飛翔することが遮られてしまっているような、そんな印象を持ちました。
ロジックの檻に閉じこめられ、羽ばたくことが出来ないワシ。
それがつまりは「何だか勢いが付かない今年のアメリカン・サマームービーたち」の正体なのでしょうね。

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へえ、そうなんだ。
と、自分で自分に教わるワタクシです。

mixi日記、いろいろ書いてましたねえ。
いまより内容が濃いことを。

たまに、再録して、自分の記憶を掘り起こしたいと思います。
それにしても、書いたことの内容を覚えてないって、物書きとしてどうなんだ、それは、とも自分で思いますけれど。