SUPER8

SSとJJのコラボ映画。
ネタバレです。























OK?









































この映画もまた、聖書的な基礎知識がちょっとだけ必要です。まず主人公の名前、ジョーと普段は呼ばれていますが、何回かこの短縮形ではなく、正式な名であるジョセフ、とも呼ばれていました。ジョセフとはつまりヨセフのことですから、これは聖母マリアの夫の名前ですね。ヨセフは婚約していたヴァージンマリアを神によって懐妊させられてしまう男です。平たく言うと愛するものを神に奪われた男だ、ともいえます。
この映画の主人公も神に愛するものを奪われます。物語はそこからはじまります。

ですが、この映画を作ったSSもJJもユダヤ人ですから、これは旧約聖書に登場する方のヨセフでもあります。こちらのヨセフは父親に溺愛された息子として知られています。で、父親からの愛を失うまいと兄弟の悪事を告げ口したりして、兄弟から嫌われたりもします。この映画の中で主人公のジョーが何度も告げ口しないでよね、とヒロインから言われているのも、彼がヨセフだから、なんですね。
で、このジョー君、フルネームはジョセフ・ラムなんですね。ラムですから当然神の仔羊です。
この父と息子が運命の犠牲者なのは当然、といった感じの名前です。

一方、ヒロインの方の名前はアリスで彼女の父親の名前はルイス。これは聖書ではなく、不思議の国のアリスと作者のルイス・キャロルですね。何でそんな名前にするのかといえば、この映画がスピルバーグ映画へのオマージュだから。スピルバーグが『ジュラシック・パーク』でルイス・ドジソンなんて、ルイス・キャロルと、そのペンネームを使っていたチャールズ・ドジソンとを合成させた名前を登場させていたことへのJJからの目配せ、ですね。

さてさて、もうひとつ、これがいちばん大事なこと。それは最後に出てくるUFOの形。
これが★の形で空に舞い上がって行きますが、これがこの映画の一番のメッセージです。
スピルバーグ映画にオマージュを捧げたこの映画にあの頃のスピルバーグ映画のトレードマークだった流れ星が登場しないなあ、と思ったらここで出てきました。
しかも流れ星が空から落ちて行くのではなく、昇って行くんです。
流れ星に祈りを託す、そんなあの頃のスピルバーグ映画にあった、けれど、そのスピルバーグ映画からもいつしか消えてしまった流れ星。それをもう一度、夜空に返そう、というJJの想いがそこに込められているように感じます。だからこそ、その流れ星にはジョー君の愛した母親の写真が組み込まれなければならないのでした。
「母さんが僕を見つめてくれた、あのまなざしを見ると、僕がここに確かに存在してるって確認できたんだ」とジョー君は言います。
その母親の写真を彼は流れ星に乗せます。
まるで、これからは夜空の星になって、僕たちを見つめていてね、と、そんな願いを星に託すかのように。
これが流れ星を失った現代の、新たな 星に願いを なんですね。
未知との遭遇にいろいろとオマージュを捧げたこの映画、リチャード・ドレイファスがいつゲストで出てくるんだろうとまで思ってしまったこの映画は、未知との遭遇のラストを彩った、星に願いを、のあの純真な宇宙への憧れを、こういう形で、流れ星を夜空に送り返す、という形で描いて見せたんですね。

この映画は、ラコーム博士のいない未知との遭遇です。あの世界でいちばん優しい笑顔で宇宙人と向き合えたラコーム博士のような存在を911以降の世界は失いました。
だから、宇宙人は軍事利用目的のために監禁され、拷問され、情報を搾り取られる目に遭います。その結果として、本来、敵ではなかったはずの彼は人類への憎しみに染まります。
この設定はまさしく、911以降のアメリカ映画の設定です。僕たちの強欲で排他的な文化が、世界に憎しみをバラまき、いまそのしっぺ返しを受けているのだ、という物語がたくさん作られました。その流れの中でこのラコーム博士のいない未知との遭遇、という物語が生まれたのです。
ラコーム博士のいない世界、それは夢を見ることのできなくなった世界だ、とも言えるでしょう。愛と夢を信じる豊かな感性は母親からの贈り物ですから、だからこの映画も母親のいない物語になるんです。
そして少年は恫喝することで自分に従わせようとする、そんな父親から、この家のルールばかりを押しつけられるのです。
ヒロインのほうの父親は、自分のせいで主人公の母親を事故死させてしまった、という罪を背負って生きています。
この男の犯した罪を許すことのできない厳格な父親がジョー君のお父さん。
これはそんな、女神を殺した、という罪を背負った父親とその罪を許せない父親の物語。そして、だからこれは、このふたりの父親が和解するまでの物語。
まるでイスラム教の神とユダヤキリスト教の神との和解のようにも、それは描かれるのでした。
他者への許し、それなくしてこれからの世界は新しい夢を見始めることはできない。
この映画はそんなことまで語っているかのように、僕には思えました。

と。

こんだけ長々と書いたのに、書き忘れてることがあって。

主人公の少年がせっせと色を塗っていたフィギュアはノートルダムのせむし男でした。
異形ゆえに虐げられ、追われ、鎖につながれて、ついにはその怒りを爆発させてしまう心やさしい青年の物語。
こんな小道具で作品の意図を伝える、それが映画というものです。